2019年4月30日、火曜日。今日で平成が終わる。
皆も私もとりあえず一時代を生きることができた。

一日の境はそんなに大きなものではないだろうが、後の時代に
俯瞰したとき、平成と令和は明確に分かたれることになるはずだ。
改元は誰にとっても、ちょっとした人生の節目になり得る。

平成が始まったとき、家庭用ビデオゲーム機はファミコンだったし、
商品のほとんどにMADE IN JAPANが刻まれているのが当たり前……
PCだって16bit、保存メディアは1.44MBのフロッピーディスクだった。
デジタル事情でみると、およそ30年ほど続いた平成のうちに大きな
進歩が見られる。

令和が始まるとき、ほぼ一人一台にスマートフォンが普及している。
それを使いこなせているかには疑問があるが、とにかく普及によって
考え方の違いも浮き彫りになってきた。 よりオープンになることで、
今まで閉じられた環境でまかり通ってきた独特のやり方、考え方による
統治が、人権や合理性などの面で厳しくチェックされる。

飲み会や部活動、24時間営業は今のままでいいのか、というのはここ数年で
話題になることも多くなっている。

要は、意味のないことに理由をつけて正当化するのが難しくなったわけだ。

裏づけのある情報が出回れば、オカルトに頼ったやり方は通用しない。
泣く子は寺に安置されている恐い修羅像の前に突き出せば泣き止む、
なんてのはあまりにナンセンスだが、戦前は当たり前に行われていた。

何事も科学的にやっていく必要がある。

これは道理だが、人の社会は礼節や宗教によってモラルを維持してきた面もある。
きちんと説明できないルールは守ってもらえないケースも増えるだろう。
例えば、朝の挨拶とか、いただきますとか、本当に必要なの? と訊かれたら
すぐに相手が納得できる説明をするのは難しいと思う。

今後、裏づけのある情報がなかったために崩壊する文化は増えるだろう。
同時に、後から実は意味がありました、となって、新しい世代が正しい
さじ加減と共に文化を再構築していくケースが出てくることも想像できる。

科学的根拠を伴う文化というものに納得するためには、ある程度の知識や
認知機能を要する、という問題もある。
ものの金銭的価値を想像するには人件費や部品、税金など原価に関する
教育をどこかで受けている必要があるだろうし、
幼い子供に、だめなものはだめ! といってしつけることも続くだろう。

特に難しいのは後期高齢者に新しい文化に納得してもらうことだ。
認知機能は低下していくものだから、科学的新説を持ち出して納得して
もらうのは理解力の壁がある。 老いた人の裁量権を現在より抑えたり、
メディアによる(非科学的)誘導といった別のアプローチが必要になりそうだ。


つらつらと書いてしまったが、とにかく日々の変化は続いていく。
時代は変わっていくし、取り残されないように努力すべきだし、
もし取り残される日が来ても、やっぱり害にはなりたくない。
未来を想像することは大切だと思うし、
想像力は自らを生かすために使われるべきだと思う。
そんな事を考える、平成最後の夜。 おしまい。