いろいろ書いてみるテスト。

最近、ネット上の記事でよく見かける『奇抜な命名』に対する意見と実情。
考え方はひとりひとり違うのかもしれないが、奇抜な名前をつけられた人間は既に
存在するし、将来、日本社会はこれを直視して受け容れなければならないだろう。

今回は、肯定的な表現で『キラキラネーム』、あるいは批判的な意味で
『DQNネーム』と呼ばれる命名について、個人的な見解を述べてみよう。

●私的なボーダーラインを定めるということ
最初に書いておくべきことがある。 他人の名前をあれこれ言うのはよくない。

私達はそれぞれの生涯において、様々な他人と、その名前と出会うことになる。
一緒に仕事をするかもしれない人、夫婦や家族になるかもしれない人、
一生の恩人になるかもしれない人など、様々だ。
私達はそれを受け容れていくことになる。 先入観や偏見はなるべく捨てたいもの。

ここで私的なボーダーラインについて語るということは、実際に命名された
人間を線引きすることではなく『私個人が何かしらの命名を行う際の指標』の一端を
紹介するということだと受け取ってほしい。

●私のボーダーライン
1 漫画、アニメ・ゲーム、ライトノベル程度の命名の多くはセーフ
2 『字足らず』は華美ではないが混乱を招くこともある

●私の考える、命名の指標
1 漢字には『音読み』、『訓読み』をあてる。
2 漢字の使用に拘らず、片仮名、平仮名での命名も検討する

▼個人的に、セーフだと考える命名

虹子(こうこ)
詩音(しおん)
星夜(せいや)
龍駆(りゅうく)

翠香(すいか)
流那(るな)
吾蓮(あれん)
紗夢(しゃむ)
是乃(ぜの)

ハイカラなネームだが、漢字の音訓は守られているので読める。
漢字のあて方に無茶があるのではないか、と感じられるものもあるが、
ここまでは一応OKだと考えている。

一方で、漢字の字面を英語などに置き換えるのはNGだと考えている。
闘士(ウォーリアー)や騎士(ナイト)、卿(ロード)などだ。既に和製漢字の
読み方としては逸脱している。 もちろん、ドイツ語読みで、鉄(あいぜん)なども好ましくない。
NG条件に従い、名前を適当にでっち上げてみよう。

▼アウトだと考える命名パターン

一(あいん)
月(むーん)
時間(たいむ)
司令(こまんだー)
華麗(えれがんと)
海女(だいばー)
解(あんさー)
天使(えんじぇる)
射手(あーちゃー)
天馬(ぺがさす)

漢字からさらに二次、三次とメタ連想すれば手がつけられなくなる。
▼アウトと考える命名からさらに飛躍したパターン

月(らいと)
時間(くろのす)
司令(こんぼい)(おぷてぃますぷらいむ)
華麗(とれーず)
海女(ま-めいど)
解(えれがんと)
天使(みかえる)(めたとろん)※天使名ならなんでも連想!
射手(しろう)
天馬(せいや)
髭(まさる)

こんなものでも申請できる。できてしまう。
ただ、「ひと昔まで使用できなかったもの」であることを思い出してほしい。
漫画やライトノベルで使われる場合は「意訳」や
「通り名、異名」であることが多い。人名に使うケースは稀だ。

●判断に苦しむ例:1
最初に『個人的にセーフな例』を挙げたが、内容に引っかかりを
感じた人もいるのではないだろうか。
ここに挙げるものは、かつての暴走族を髣髴とさせるように、
その感覚をエスカレートさせた例だ。

実土理(みどり)
慧祢栖(けいねす)
頑駄無(がんだむ)
餡犯漫(あんぱんまん)
培菌萬(ばいきんまん)
邪夢悪児惨(じゃむおじさん)

一応、読める漢字を使ってはいるが、果たしてこうまでして名前を表現
すべきかどうか疑問の浮かぶものもあるだろう。
『実土理』は有りとしたくても『慧祢栖』あたりからは悩みどころだ。

こういった印象やジレンマを避けるためには、『命名に向いた、有意義な
漢字のみで構成する』ことも大切かもしれない。

●判断に苦しむ例:2

漢字の読みに対して漢字が過剰であるケースについて触れておこう。

勝利(まさる)
幸福(さち)
活力(ちから)

この場合、読むときは片方の文字だけでこと足りる。
言葉は綺麗で自然だが、初見ですんなり読むことはちょっと難しい。
説明を受ければ連想は可能だから、憶える分には苦労しない。

こういった命名は以前からあるので、今さらどうこう言うのは筋が違うかもしれない。

●ちょっと考察

日本人の名前は時代によってその形を変えてきた。
太郎、次郎など100年以上通用する名前の方が稀だろう。
おまけに社会のグローバル化によって他の人種との触れ合いも多くなったので
日本人らしからぬ名前が増えるのも無理はないと思う。
そもそも、他人種や日系ハーフの人もいるから、命名の全てが日本語由来に
なるわけではない。

こう考えていくと、名前が日本人らしいかという観点ではなく、
漢字を無理なく使えているかどうかが命名の焦点になってくるように思える。

●まとめ
名前のうつろいは避けられない。
とはいえ、漢字をうまく使えないまま、奇抜な命名を行う慣習にはあまり感心しない。
一番苦しむのは『奇抜な名前を社会が受容するまでの過渡期』に自立する人々だと思う。
親は幼い子供を守るもの。そのためには白痴であってはならない。

また、今あるものから目を背けることにも感心しない。
命名を『人をはかる鏡』として信用しすぎると、自分自身の眼を濁らせることにもなりかねない。
名前という記号に振り回されず、己の眼でありのままを見つめるようにしたい。