デンパイルカ ~ひろぴょこのblog~

ゲームや日常的な話題。

2013年04月

私の場合、5月を目前に控えるとプラモデルを作りたくなる。

これは、おそらく静岡ホビーショーが影響している。

静岡といえば地場産業にプラモデルをもつ土地で、
最近存在感を増してきたバンダイホビーセンター以外にも何気ない場所に
模型関連会社を見つけることができる。

そんな地元の数少ないイベントなので毎年足を運び、その都度、
プラモデルを作るためのモチベーションをもらって帰ってくる。

――とはいえ、ここしばらくはプラモデルを作る時間を十分にとっていない。
そのため、製作するものは比較的簡単なものに限られてくる。

"簡単”というのは組み立てのことではなく、塗装や整形を省けるもの
という意味で、最近はバンダイのレジェンドBB戦士などを製作している。

部屋のスペースも限られているので必然的に思い入れのあるキットを
選択して組み立て、最低限の部分塗装を行うことで満足することにしている。

BB戦士(SDガンダム)のシリーズは金や銀といった派手な色の
ラインが設定にあるものが多いが、完全には再現されていないことがあり、
自分で軽くひと手間かけてやることで見栄えが劇的に良くなる点が気に入っている。

プラモデルというものは作るものだから、塗装済み完成品とは根本的に異なる。
再現性の優れたアニメーションモデルをコレクションしたいだけの人にとって
プラモデルは煩わしいだけかもしれないが、私の場合は自分で作ることで思い入れが
増すという点に価値を見出している。

プラモデルは組み立て説明書の通りに組んで終わってしまうと、そこに個性の
入る余地はあまりなくなってしまう。幼少期であれば作るだけでも独自性を見出せた
ような憶えもあるが、今は例え面倒でも自分なりのスパイスを加えることを
大切にしている。

この点はゲームでも同じで、エンパシー(感情移入)重視だと思う。
自分で体験、あるいは娯楽として触れたものに嗜好が偏っている。

そんな感じで、例えばガンダムUCのMSなどはデザインが格好良くても
小説やアニメを見ていないからプラモデルを作る気が起こらなかった。
(UCは最近アニメ版をある程度カバーし始めたから手を出そうかとも思い始めた)

新しいプラモデルを購入しようという意思はあるが、自室には大量の未消化プラモが
積まれている。 
思い入れが強いキットは丁寧に作りこもうとする(つまり表面処理や全塗装)傾向が
あるため、こういう結果を招いているような気がする。

どんな創作もこだわりすぎて完成させる力が鈍るのは悪い癖だ。
この癖は少しづつ克服していきたい。


幼児の頃からミニカーの両ドアを開いてロボットに見立てて遊んでいた記憶がある。
その頃は手軽なロボット玩具なんてあまりなかったので自動車の向こうに
ロボットを見ていたのだろう。

私はロボットアニメが好きだ。
どのくらい好きかといわれてもよくわからないけれど。

一方、ガンダムは特別好きでもなかったことを憶えている。
(それでもユニコーン以前のMS、MAなら大抵わかるしガンプラも数百個は
作ってはいる)

好きでないというのは、理想のロボット像ではないという意味。
鉄の棺桶に放り込まれて命のやり取りをすること自体には魅力を感じない。

私がロボットに(最も)求めているものは、"力の拡大”だと思う。

ヒトができないことを実現する力。
それをより大きく、より詳細かつ高速に行使する器…とかそんな感じの。

日本人が仏像だか大魔神に見てきたような、人智を超えた神智の具現。
実際、ロボットもので神(機械仕掛けの神)を扱う作品も結構ある。

そういえば、人間が搭乗・操作する巨大ロボット(スーパーロボットの定義)の
元祖であるマジンガーZも“魔神”という語になぞらえている。
これも発想の根源は日本人の魔神観なのかもしれない。

ここまで考えてみて、自分はもしかするとロボットに対して、あまり
“メカメカした”デザインや有り様をあまり求めていないのかもしれないと思った。

もちろん格好いいロボットを見たいとは思うものの、ロボットに際限ない全能を
求めていくと、外見と機能の連想が一致するリアルロボットのデザインでは
限界があると考えてしまう。
こうなると外見に盛り込む機能そのものをオカルト化することになりそうだ。 


●ロボットでない何か:巨大ロボット = 乗り物 という刷り込み
そもそも日本人のロボット観は本当にロボットに向けたものなのだろうか。
確かロボットという言葉には“奴隷”という意味合いもあったはずだ。

作業用の機械をロボットと言うのは正解だろうが、ガンダムやマジンガーの
ような自動化を求めていないものはロボットなのだろうか。

アトムやロックマンなどに登場するロボットは目的に沿って作られた機械に
自然な流れでAIが加わった結果、暴走したり、考えたりする。
どちらかといえばこちらの方がロボットとして、本来の形に近いと思う。
米国で受け容れられたトランスフォーマーも“自律して人を必要としない”
ロボットだ。 フランケンシュタイン型と捉えればわかりやすい。

ガンダムのモビルスーツはもともと宇宙作業用の機械だが、言葉のまんま
“スーツ”だと言えるし、エイリアン2のパワーローダーに近いものだと思う。

時代を経てロボットの定義が拡大したと言ってしまえばそれまでの事だが、
フォークリフトをラジコン操作に改造してもロボットとは言わないだろうし、
代わりにセンサーとAI(目と脳)を与え自律可動させれば、それはロボットだと
言えるのではないだろうか(ロボットコンテストはどこまでロボットなのだろう?)。

●パワーローダー型マシン
一人で勝手に正しい形を模索したところで、現実での境界は常に曖昧だ。

話を戻していくと、自分自身が求めるロボット像そのものが
ロボットの定義を外れたところにあるのではないかと思えてきた。
私からすればMS、TA、ACやASなどに想いを抱いている人も
ロボットでないという一点において同様に映る。 タチコマはOKだけど。

そもそもロボットという言葉を使うから厄介なことになる。
メカやマシンなどと呼んでおけば何も考える必要はない。


●まとめ
先の主張を編集した結果、下のようになった。

『私が巨大メカの出てくる作品に最も求めているものは、
魔神のような力を獲得できる格好いいパワーローダーである』

遠回しになってしまったが一応まとまった。
まあ確かにネオグランゾンとかGガオガイガーとかゼノギアスとか
デモンベインとかは好きだし、そういうことなのだろう。
機械であるかどうかというより原始的な宗教観(力の象徴を立てた
偶像崇拝かなにか?)ありきのようにも思える。

自分の考えはまだ作品の楽しさを求める前にヒーローっぽいものを求める段に
あるのかもしれない。

次に書く時はロックマンやタチコマといった、国際的な意味でよりロボット寄りの
方面で考えてみよう。

このページのトップヘ